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2006年02月17日

意思伝達の過程における言語の限界 その1

 自らの意思を他者に理解してもらう。それが意思伝達の最も胆略的な解釈である。ではその媒介となるのは何かというと、人間の場合、ほとんどが言語となる。

 古より、日本では‘言霊’という言葉があることでわかるとおり、また‘ことば’という単語の変換には言葉と詞の二つがあるとおり、人の発する音には意味、意思が含まれるのである。

 ではその意思は正確に他者に伝わるのかというと、なかなかそうは行かない場面に多く出くわす。誤解されたり、いまいちニュアンスが違ってしまったり、時には話者のほうが、明らかに言葉の選択を間違えたりと、その状況はそれこそ枚挙に暇がない。

 そこで考えるのは意思伝達の方法として、言語はふさわしいのかということ。ただ用件を伝えるというのなら、もっとも正確に伝えやすいのは時に言語であったり、時にメモ程度の書面であったりするだろう。ここで考えたいのはより深い意識の伝達。例えば人を説得するときや、愛情を伝えたりするときなどである。

 人は時としてその意思伝達に、目を使い、体全体を使う。言語のみにその力を期待するつもりは毛頭ないものの、言語に携わる仕事をしていて、その持っている力の大きさ、逆にその小ささをしっかりと認識しなければならないと重い、今回このタイトルで書き始めてみました。

 実際書き始めるとそのテーマの大きさと自分の持っている言語に対する認識の浅さを目の当たりにし、驚きを隠せません。

 私が今までに持っていた言語に対する認識は

    言葉というものは一度話者の元を離れてしまえば、どんな意識を持っていても
   それを認識、解釈するのは他者であり、その解釈は他者の意識、経験、状況に
   よるものである。よって話者はより慎重な単語選択を要するものであり、しかし
   それは他者となったときのさらなる慎重を求める。つまり、聞き手としての話者に
   対する聞き方も慎重を要するということである。

 というものです。今現在どう考えているかというと、そう大差はありません。しかし、以前と比べ大きく変わったのはどちらの立場に立ったときも、より経験を活かせるようにはなってきたかなということです。

 今回はその1として、私の今まで、そして今現在の言語認識を書きました。正直な話、まだまだその力を完全に理解するに到っていないので、せめて日々の生活の中で、より高い意識を持って言語を使っていき、気づいたことを記していきたいと思っています。

投稿者 owner : 2006年02月17日 00:30

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コメント

PCの様な、「文章」としての存在の言葉の場合、確かにその言葉の意味は、書いた方の人間と、読む側の人間とで、その意味合いは異なる場合があります。

語尾に「!」をつけるとか、最近でしたら「(笑)」とか「(涙)」とか・・・
簡単ですが、その言葉をどういった心境で書いたか?と表現する手段が少ないですが存在していると思います。

書いてある通りですが、一度出た言葉は、二度と訂正は出来ません。

「口は災いの元」ということわざがある通り、こういった言葉に関するトラブルが起きる場合もあります。

何気に使っている言葉ですが、ちょっと意識して発言等をしてみたいと思いました。

投稿者 林原 : 2006年02月17日 10:37

 言葉というのは本当に気軽で、でも本当に難しい物だと思っています。

 日々常に気を使いながら会話をすることは不可能に近いことだと思いますが、やはり最低限の礼儀などは気をつけていきたいです。

 やや堅苦しいタイトルであり、内容になってしまうとは思いますが、これからも言語・言葉について気づいたことなどを載せていきたいと思っています。

投稿者 owner : 2006年02月18日 01:50